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私と織物・葛布の装幀

 私は倉敷本染手織研究所を卒業してから手織を職業とはしていません。ですからこれといった作品ものこしていないわけですが、研究所に先生の助手としてお勤めしていた時に、織らせていただいた思い出深い作品があります。助手時代にのことですから、私の名前で織ったものではありませんが。
 手織研究所の所長、故・外村吉之介先生は、戦前に『葛布帖』という大著を出された程の葛布の第一人者で、日本民藝館の創立当時の壁紙や本の装幀など、沢山の作品を遺されています。近年はその葛を織る機会はほとんどなかったのですが、当時まだご存命だった壽岳文章先生から『壽岳文章書物論集成』という本の装幀用の布のご注文をいただき、私が中心になって製作することになりました。この時私は技術も未熟で広幅の絹の整形は経験がなく、縦糸に濃紺の絹糸を使うのですが、古い民家の研究所はとても暗く、夕方になると細い絹糸が見えなくなり、苦労したことを思い出します。でも経糸に葛を織り込んでいく作業はとても楽しいものでした。
 実際にこの本ができ上がったのは、私が倉敷を離れた後のことだったので、現物を見ることなく、何年も過ぎてしまい、偶然に知りあった川崎在住の装幀家の方が、装幀した本だとわかり、昨年その方のお宅をお訪ねして、はじめて手にとって見せていただくことができました。この本は壽岳文章先生がこれまで書かれた書物についての文献をすべてまとめたもので、超特本、特装本、普通本と三種類作られ、葛布を使ったものは超特装本で、限定弐拾部。一九八九年七月発行。見返しに斐伊川の板干手漉紙を使い、松本民芸家具創始者の故・池田三四郎氏の案で木曽で製作されたふき漆塗の見事な函に納められていました。
 実際に本になった布を見た時、腕が未熟で納期に間に合わず、先生達にも心配をかけてしまったことも思い出しましたが、やらせてもらえてよかったとあらためて思いました。
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by cha-yuzuriha | 2004-08-31 15:10 | 手仕事・工藝・デザイン

「ゆずりは」のこと

 仕事を始めるにあったって、「ゆずりは」という名前をつけたとき、実家の父に「河合酔茗の詩を知っているのか」と言われ、正直なところ知りませんでした。教えてもらって読んでみて、あらためて「ゆずりは」という名前にしてよかったと思いました。

ゆずりは    河合酔茗

こどもたちよ、
これはゆずりはの木です。
このゆずりはは
新しい葉ができると
入れ代わって古い葉が落ちてしまうのです。

こんなに厚い葉
こんなに大きい葉でも
新しい葉ができると無造作に落ちる、
新しい葉にいのちを譲って—。

こどもたちよ、
おまえたちは何をほしがらないでも
すべてのものがおまえたちに譲られるのです。
太陽のまわるかぎり
譲られるものは絶えません。

輝ける大都会も
そっくりおまえたちが譲り受けるものです、
読みきれないほどの書物も。
みんなおまえたちの手に受け取るのです、
幸福なるこどもたちよ、
おまえたちの手はまだ小さいけれど—。

世のおとうさんおかあさんたちは
何一つ持っていかない。
みんなおまえたちに譲っていくために、
いのちあるものよいもの美しいものを
一生懸命に造っています。

今おまえたちは気がつかないけれど
ひとりでにいのちは伸びる。
鳥のように歌い花のように笑っている間に
気がついてきます。

そしたらこどもたちよ、
もう一度ゆずりはの木の下に立って
ゆずりはを見る時がくるでしょう。

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by cha-yuzuriha | 2004-08-25 11:16 | 思うこと

私の愛用品

 「愛用品」というのは、愛して日々用いなければ「愛用品」と呼んではいけないのかもしれない。そういう意味ではこの萬年筆は、愛しているだけで日々用いられてはいるとは言えない。最近の私はなかなか萬年筆で手紙を書いたりするよりも、ついつい本当の愛用品であるノートパソコンにむかって、メールをしたり原稿を書いたりしている時間の方が圧倒的に長いのである。
 しかしこの萬年筆を愛用品と呼びたいのには訳がある。これには私専用のペン先がついているからだ。
 出会いはもう3年程前だろうか。青山の骨董通りにとても素敵な萬年筆の専門店ができた。私の友人の半田ナナ子さんがそのお店の女性スタッフの着る制服のデザインを手がけたことから、一度見てみようと思い、仕事の帰りに立ち寄ったのだった。
 静かな店内で萬年筆を眺めていると、突然激しい雷が鳴り、どしゃぶりになって、とても店をでられそうもなくなってしまった。困っている私たちに店主の方が「これもご縁ですから、どうぞごゆっくり」と言われて、お茶を出してくれた。恐縮しながらも、ご縁を大事にする私としては、もうすっかり急いで帰る気持ちはなくなって、店主の方にいろいろ質問をはじめた。私がその頃夢中になっていたセピアインクのことである。店主の方も「そんなことを調べている人がいるとは驚いた」といいながら、いろいろ親切に教えて下さった。そして「セピアがお好きなら当然萬年筆はお使いでしょうね?」と聞かれてしまった。まずい・・・一本も持っていないのだ。これには訳があった。私は左利きなのである。それまで萬年筆を買ってみても、どうも書きにくくて、これは左利きだからだろうと思って、あきらめていたのだ。それを話すと「左利きでも萬年筆は使えます。ペン先を研げばいいんです」と教えて下さったので、私はとても驚いて、これこそ本当に雨がもたらしたご縁だろうと思って、自分用に研いでいただくことにした。
 その場で萬年筆で書いてみて、私の書きやすい角度をはかってもらい、専門の人が研いでくれるんだとか。数日後に仕上がってきたそのペン先は、確かに今までとは違う、私のための角度に仕上がった、なめらかな書き味だった。
 ウォーターマンのこれは、ちょっと贅沢品かと思ったけれど、自分のための1本だから、いいものを持ちたいと思ったのだった。折しも長く勤めた仕事を辞める決心をした頃のことで、それまでがんばってきた自分への御褒美という気持だった。
 最近になってこの萬年筆を買った「書斎館」のサイトに店主の方の日記がでており、その中に私が萬年筆を買った時のことが書いてあることに気がついた。ちょっと照れ臭かった。
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by cha-yuzuriha | 2004-08-23 15:45 | 暮らしの中から

手作りのスモック

最近あまりミシンを踏んだりする機会もなく過ごしていましたが、この春、息子の通う保育園で、進級するにあたって、パジャマ袋、スモッグ、コップ&歯ブラシ入れなどが必要になりました。今までなんとなく既存のものですませてきたので、全部手作りしようと思い立ちました。自分だって幼稚園の時、おばあちゃんが作ってくれた、赤ずきんちゃんのみごとな刺繍の施されたお弁当袋がとても自慢で、今でも大切に持っているんですから、我が子にもそれには及ばなくても、私の手作りを持たせてやりたいと思ったのです。
(私の母もそれなりに努力はしてくれていましたが、あのおばあちゃんのお弁当袋には残念ながら勝てません・・・)
丁度、以前から何か作りたいと思って買っておいた布がありました。イラストレーターの山本祐布子さんのデザインで、Louleの甲斐みのりさんとユナイテッドアローズの共同で製作された布です。ちょっと木みたいに見えるけど、これは「セロリ」柄。全部同じ布で縫えば、先生も一目で我が息子のものだとおわかりいただけるだろうとも思って、全部同じ「セロリ」柄にしました。調子よく縫い上げて、姉に電話で自慢したところ、姉もパジャマ入とお弁当袋を縫わなければならないけれど、時間がないと電話の向こうで泣いている・・・「姉よりも器用」日頃からいばっている私としては、作ってあげないわけにはいきません。早速、姉の息子の分も一気に縫い上げました。
保育園に持っていくだけですから、誰に褒められるわけでもありませんが、毎日使うものだから、子供に愛着をもって使ってほしいと思うのです。
でき上がって息子にみせたら、あまり言葉はありませんでしたが、うれしそうな顔をしてくれました。母はこれだけでマンゾクです。
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by cha-yuzuriha | 2004-08-20 11:15 | 暮らしの中から

倉敷本染手織研究所

「倉敷本染手織会」となんの説明もなく前回書きましたが、これは私が卒業した学校の同窓会組織の名前です。学校の名前は倉敷本染手織研究所。『カーサブルータス』の「フロム日本」のコーナーでもノッティングという椅子敷が紹介されたことがあるので、民藝に縁のない方でもご存じかもしれません。
 倉敷美観地区、あの白壁の町並みの喧騒の中に、ひっそりとその研究所はあります。昭和28年、民藝運動家・外村吉之介、清子夫妻によって開設されました。
今回はこの研究所ができた由来を書きたいと思います。
 戦争中、軍需工場となっていた倉敷紡績には、沖縄からも女子挺身隊が働きに来ていました。倉敷紡績の大原総一郎社長は、終戦をむかえたものの、焦土と化した沖縄にはすぐには帰れないだろうから、暮らしのため、また沖縄の文化の再建のためになる技術をと考えて、民藝運動の創始者である柳宗悦に相談し、当時福井で牧師をしながら織物をしていた外村を紹介され倉敷に招き、手織の指導を請うたのです。その女性達の中には、のちに人間国宝になった芭蕉布の平良敏子さんも含まれていました。
 女性達が無事に帰島したのち、外村夫妻は倉敷民藝館を開館させ、民藝館向かいの自宅に研究所を開設したのです。毎年4,5名の内弟子を迎えて、共同生活をしながら織物の実技と民藝美学についての講義をするという生活を外村夫妻は四十年近くの間続けました。外村夫妻が亡くなられてからは、息子さん夫妻が後を引き継いでいます。
 私が研究所に入所したのは昭和63年、外村先生が89歳、私が18歳の時のことでした。
(写真は開設された頃の研究所外観です。今もほとんどかわっていません。(『倉敷町並物語』より複写しました)
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by cha-yuzuriha | 2004-08-19 15:39 | 手仕事・工藝・デザイン
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