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by cha-yuzuriha
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倉敷本染手織研究所
「倉敷本染手織会」となんの説明もなく前回書きましたが、これは私が卒業した学校の同窓会組織の名前です。学校の名前は倉敷本染手織研究所。『カーサブルータス』の「フロム日本」のコーナーでもノッティングという椅子敷が紹介されたことがあるので、民藝に縁のない方でもご存じかもしれません。
倉敷美観地区、あの白壁の町並みの喧騒の中に、ひっそりとその研究所はあります。昭和28年、民藝運動家・外村吉之介、清子夫妻によって開設されました。
今回はこの研究所ができた由来を書きたいと思います。
戦争中、軍需工場となっていた倉敷紡績には、沖縄からも女子挺身隊が働きに来ていました。倉敷紡績の大原総一郎社長は、終戦をむかえたものの、焦土と化した沖縄にはすぐには帰れないだろうから、暮らしのため、また沖縄の文化の再建のためになる技術をと考えて、民藝運動の創始者である柳宗悦に相談し、当時福井で牧師をしながら織物をしていた外村を紹介され倉敷に招き、手織の指導を請うたのです。その女性達の中には、のちに人間国宝になった芭蕉布の平良敏子さんも含まれていました。
女性達が無事に帰島したのち、外村夫妻は倉敷民藝館を開館させ、民藝館向かいの自宅に研究所を開設したのです。毎年4,5名の内弟子を迎えて、共同生活をしながら織物の実技と民藝美学についての講義をするという生活を外村夫妻は四十年近くの間続けました。外村夫妻が亡くなられてからは、息子さん夫妻が後を引き継いでいます。
私が研究所に入所したのは昭和63年、外村先生が89歳、私が18歳の時のことでした。
(写真は開設された頃の研究所外観です。今もほとんどかわっていません。(『倉敷町並物語』より複写しました)
倉敷美観地区、あの白壁の町並みの喧騒の中に、ひっそりとその研究所はあります。昭和28年、民藝運動家・外村吉之介、清子夫妻によって開設されました。
今回はこの研究所ができた由来を書きたいと思います。
戦争中、軍需工場となっていた倉敷紡績には、沖縄からも女子挺身隊が働きに来ていました。倉敷紡績の大原総一郎社長は、終戦をむかえたものの、焦土と化した沖縄にはすぐには帰れないだろうから、暮らしのため、また沖縄の文化の再建のためになる技術をと考えて、民藝運動の創始者である柳宗悦に相談し、当時福井で牧師をしながら織物をしていた外村を紹介され倉敷に招き、手織の指導を請うたのです。その女性達の中には、のちに人間国宝になった芭蕉布の平良敏子さんも含まれていました。
女性達が無事に帰島したのち、外村夫妻は倉敷民藝館を開館させ、民藝館向かいの自宅に研究所を開設したのです。毎年4,5名の内弟子を迎えて、共同生活をしながら織物の実技と民藝美学についての講義をするという生活を外村夫妻は四十年近くの間続けました。外村夫妻が亡くなられてからは、息子さん夫妻が後を引き継いでいます。
私が研究所に入所したのは昭和63年、外村先生が89歳、私が18歳の時のことでした。
(写真は開設された頃の研究所外観です。今もほとんどかわっていません。(『倉敷町並物語』より複写しました)
by cha-yuzuriha
| 2004-08-19 15:39
| 手仕事・工藝・デザイン
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